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◇シンポジウム「純粋経験」発表主旨◇


純粋経験の論理 —〈統一的或者〉が意味するもの—

井上 克人(関西大学)

 西田哲学の中心問題は、その発展の全プロセスを通じて〈真実在〉であったと言っても過言ではない。明治44年に初めて刊行された『善の研究』では、主客未分の「純粋経験」がそのまま生きた真実在に他ならず、しかもそこに「無限の統一力」、「統一的或者」が看取され、含蓄的(implicit)な潜勢的一者が己自身を発展させてゆく、生きた全体として見られている。
 こうした真実在の動性を内容とする純粋経験も、その最も直接的な主客未分の意識状態から思惟あるいは反省へと分化し分裂してゆくが、それは純粋経験そのものの深化発展のプロセスに過ぎず、純粋経験はそのプロセスを通じてどこまでも自発自展する一つの体系を保持しているのである。しかし、このような真実在の生きた体系の構造を叙述するのに、いわゆる「純粋経験」という概念でもってしては包み切れない問題が生じてくる。
 昭和11年、『善の研究』の版を新たにするに際して、彼は、本書の立場が意識の立場を出でず、心理主義的色彩の強い性格をもっていたことを認めつつ、自分の考えの奥底には単にそれだけに尽きない問題が本書執筆の頃にもすでに潜んでいたことを述懐している。彼の考えの奥底に潜むもの、それはいったい何だったのだろうか。それは、一言でいえば〈超越〉への志向ではなかったであろうか。
 純粋経験の自発自展と言われるときの「自」という表現は、統一的或る者が絶えず分化発展しつつも、どこまでもそれ自身に同じものとして自己同一を保つということに他ならず、そこには、超越的に一なるものがどこまでもその超越性を保持しつつ自らを展開させてゆく、いわば自己内還帰的根本動性が見られる。こうした論理的構造は、東洋的思惟の特質である「体・用」の論理、詳しくいえば、『大乗起信論』における真如と随縁の関係、宋学でいわゆる「理一分殊」の論理と符合するものであり、つまるところ、それは「内在的超越」の論理であった。
 こうした西田哲学の根幹に潜む論理の視点から翻って、初期西田における「純粋経験」のもつ意味と特質を再検討してみたい。


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宗教的行為としての純粋経験

K・リーゼンフーバー (上智大学)

 真の実在に迫って純粋経験を哲学的に解明し、体系的に展開しようとする試みは、初期西田思想の意図であろう。ここで、純粋経験の理論が宗教論に結実し、その認識論的・存在論的基礎づけを眼目にしていることを示したうえ、まず、西田の人間論と世界観における宗教の位置づけが純粋経験に求められている理由を考察して、その哲学史的背景にふれながら、純粋経験の特徴と問題点を検討したい。
 ――西田によれば、宗教は人間存在の最も基本的で、最も優れた要求であり、その出発点は宇宙の法則のもとで、また人間の意識の根底にはたらく根源的統一力の直観や自覚にある。純粋経験は主客関係における意味への志向的関わり以前(またその以後)にある充実した実在の直接の遂行にほかならないが、純粋経験において自我が現実そのもの、また自らの根源に戻り、知・情・意の分割以前にある自覚を通して、その無底の深みにおいて無限で絶対的統一力、つまり「神」と呼ばれる存在への見通し(知的直観)をひらく。
 こうした直接経験において、有限的な人間に無限との合一の可能性がひらかれることにおいてこそ、宗教の基盤があるとされる。自己中心的自我の無化によって可能となるこの精神の自己遂行と純粋な統一 へ向かっての自己突破は、真理的経験や認識論的考察にとどまらず、無限に対する有限者の形而上学的希求によるので、ここでは純粋経験の理論の哲学的・宗教的背景を西田がその名を挙げている哲学者・神秘家との関連で宗教的信仰の基礎づけとしてのその役割と限界を考えたいと思う。


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イシスのヴェール ―前期西田哲学と美的経験(要旨)

小林信之(京都市立芸術大学)

 エジプトの女神イシスを覆うヴェールの比喩は、西欧ではよく知られている。知恵 の象徴である女神を探しもとめたすえ、やっと見いだして、その顔のヴェールをひき あげた途端、そこに現れたのは自分の顔であったという話である。西田幾多郎自身こ の比喩をとりあげたことがあるが、『善の研究』で「実在とはただ我々の意識現象す なわち直接経験の事実あるのみ」と語る彼の言葉はまさにこの比喩を想起させるもの である。純粋経験の概念を考えるにあたってこの比喩にひきよせていえば、西田が言 わんとするところは、けっきょく「実在の真景」もわたしたち自身の内に覗き見られ るほかなく、たえずそこへと立ち還るほかない、といったことであるように思われる。
 だが、ここでわたしはとくに、この比喩においてヴェールというネガティヴなもの のもつ意味を考えてみたい。つまりさしあたり真の実在がわたしたちには閉ざされて いるということ、いいかえれば純粋経験が直接的に透明に直観されるのではなく、不 純さと混濁をふくむということ、わたしはこの点に注目したい。「具体的意識にはい つでも己自身のなかに非顕現的な部分がある、対象化することのできない部分がある 。意識はこれあるによって自発自展的である」と西田も述べているように、この、純 粋経験における「不純なもの」、あるいは意識することそのこと自体の隠蔽性、それ こそ、わたしたちを不断にかりたて、運動へともたらす動因なのではあるまいか。
 他方、美的経験もまた、一方において知覚経験の純粋性を前提すると同時に、自ら の否定性に直面する創造的経験でもある。一般に西田の思想(とくに前期)において は、フィヒテ的な行為我としての意志が強調されているようにみえる。しかし、にも かかわらず彼の思想は、意志主体としての自己をどこまでも貫徹する思想であるより はむしろ、意志を映すまなざしを前提しつつ、物としての否定性をそのまま承認する 思想、物が物の本性を現じる働きをそのまま意志の統一力に認める思想であるように 思われる。ここには、詩的ないし美的観想と諦念を基調とする文化的伝統、いわば物 という否定性へと意志を放擲することを最終目標とするような伝統が見てとれるので はなかろうか。
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